野球をやる理由
日本に伝わってから200年以上の歴史が経ち、現在では国民的人気スポーツの1つになった「野球」。現在では春と夏の甲子園や大学野球、プロ野球、そしてイチロー選手やマーくんこと田中将大選手の活躍で日本でも一躍人気となった海外の「メジャーリーグ」など、様々な形で観戦やプレーが楽しめるようになりました。
時間制限がなく、最後のアウトが取られるまで何が起こるか分からない。得点差に大差があったのに、9回で逆転するというという奇跡が起きてしまうのが、野球というスポーツの大きな魅力であり、野球をやる理由なのかもしれません。野球の歴史と共に振り返ります。
野球の歴史
野球は1839年に、アメリカ合衆国、ニューヨーク州オチゴ郡に位置する村・クーパーズタウンで、アブナー・ダブルディ将軍によって始まったと言われています。
クーパーズタウンといえば、野球ファンなら一度は聞いたことがある街の名前であり、野球の発祥地としての神話も存在しています。メジャーリーグで活躍した選手らを称える野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum)があり、ダブルディ・フィールドという野球場もある街として有名です。
野球の起源を遡れば、それこそ人類がこの世に登場した頃に辿り着き、そこに棒切れと石ころがあれば、それはスティック&ボール・ゲームとして遊びの対象になったんだとか。それが少しずつ変化と進化を遂げて現在の野球の姿になっています。
日本に野球が伝えられたのは、1872年(明治5年)。東京大学の前身である東京開成学校予科にて来日したアメリカ人教師ホレス・ウィルソンらが、母国からボールとバットを持ち込み、学生たちに野球を教えました。その6年後には社会人を中心とした本格的野球チームが結成され始めます。この頃は、野球と言う言葉もまだ使われておらず、「打球おにごっこ」という名で全国的に広まりました。他には「玉遊び」「打球鬼ごっこ」「底球」など様々な名前で呼ばれていた様。そして海外での野球の呼び方、「ベースボール」を「野球」と日本語に訳したのは、旧制一高野球部員OBであった中馬庚(ちゅうまかのえ)とされています。
大正時代には、今の高校野球・夏の甲子園大会に当たる全国中等学校優勝野球大会が開始されたり、東京六大学リーグが始まるなど野球人気はどんどん高まっていきました。 昭和になると、大リーグチームが来日して日本のチームと対戦し、これを機に日本初の職業野球チームが結成されます。そしてプロ野球として発展し、数々の名勝負や感動の場面を提供して、日本文化の一翼を担う程成長したのです。
野球を始める多くの人は、小さいころ父親とキャッチボールをしたのがきっかけなど、父親の影響を受けている事が多いのでは?イチロー選手は3歳の時におもちゃのバットとボールを買ってもらい、小学校3年生の時に地元のスポーツ少年団に入団し担だとか。そして小学校6年生の時にはプロ野球選手になるという明白な夢を持っていたそう…!
サッカーやバスケットボールは試合時間が決められており、決められた時間内に多く得点を取った方が勝ちというルールです。しかし、野球には時間制限がなく、攻撃できる回数が決まっています。
つまり、最終回2アウトまで勝つ可能性が残っているという事。得点差に大差があったのに、9回で逆転するという歴史は今まで高校野球の甲子園でも何度も起きています。
野球にはこういったドラマがあるのが、他のスポーツと比べた時の何よりの魅力であり野球をやる理由の一つともなります。やっている方も見ている方も、両方が楽しめますよね。
甲子園で起きたドラマ達
高校野球大会では逆転劇が度々起こります。その数々のドラマとは?
▷2014年夏 第96回全国高校野球選手権石川大会 決勝 小松大谷 ー 星稜
2014年7月27日、夏の甲子園出場をかけた高校野球石川県大会決勝戦、星稜高校対小松大谷高校の試合で起きた奇跡の逆転劇。
特にすごかったのが2014年の石川県の決勝で星稜が9回裏に0-8から逆転サヨナラで勝った試合ではないでしょうか。
星稜のエース・岩下はこの日は先発して3回6失点と調子が悪く、打線も5回にようやく初安打が出るなど沈黙と続けていた星稜打線だが、0-8で迎えた9回表、岩下が三者連続三振を取り流れを変えました。
その裏、疲れの見えた小松大谷のエース・山下を攻め、今村、村上のタイムリーで2点を返したところで小松大谷は投手交代。そして攻撃の手を緩めず岩下の場外弾などで8-8とし、最後は二死一三塁で佐竹が左越えへサヨナラタイムリーを放って試合を決めました
0-8から逆転サヨナラで勝ったこちらの試合は特にすごかった試合として多く語られています。
星稜のエース・岩下はこの日は先発して3回6失点と調子が悪く、打線も5回にようやく初安打が出るなど沈黙と続けていた星稜打線でしたが、0 – 8で迎えた9回表、岩下が三者連続三振を取り流れを変えました。
その裏、疲れの見えた小松大谷のエース・山下を攻め、今村、村上のタイムリーで2点を返したところで小松大谷は投手交代。そして攻撃の手を緩めず岩下の場外弾などで8-8とし、最後は二死一三塁で佐竹が左越えへサヨナラタイムリーを放って試合を決めたのです。
小松大谷は甲子園出場を決めたも同然の状況から、一転して地獄に落とされる事になり、1985年以来の甲子園出場とはなりませんでした。
小松大谷の西野監督は1991年夏大会、星稜に1-5と敗れた決勝戦に一年生右腕として先発していました。選手として、そして監督としても星稜の前に敗れてしまったのです…。
星稜OBの松井秀喜さんは「最後まであきらめなかった選手たちがすばらしいです」と8点差をひっくり返した驚異の粘りを評価しました。
その後、星稜のエース・岩下選手は同年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズに3位で指名され入団。敗れた小松大谷のエース・山下亜文選手も福岡ソフトバンクホークスに育成3位で指名されプロ入りしました。
▷2017年春 早稲田実業(東京)- 明徳義塾(高知)
3ー2 から、横山が放った打球は投手正面のゴロ。和泉監督が「万事休す」と思った瞬間、明徳義塾・北本が落球。清宮、野村が連続四球を選び、絶体絶命のピンチから追いつき、10回2死三塁から9番野田優人内野手(2年)の中前適時打で勝ち越しました。負けた明徳義塾の馬淵監督は「早実には野球の神様がついとる。」と言ったそう。
▷2004年春 済美(愛媛)- 東北(宮城)
2-6と劣勢で迎えた9回、済美高はノーアウト一塁から田坂の三塁打と新立の二ゴロで 2点を返す。 なおも2死一、二塁のチャンスに、3番・高橋勇丞が左越え本塁打を放ち、 逆転サヨナラ勝ち!ダルビッシュ選手のいた優勝候補・東北がまさかの敗戦に…。
このように、大逆転の試合はたくさん起こっています。99%決まった試合がひっくり返されるその瞬間、そこに立ち会いたくはなりませんか?
野球をやる理由として、そこに一つの理由があるかもしれません。